雨の日は山のことを思い出す。森の中に響き渡る雨の音。あの音が好きだ。雨の音が反響していて、その音だけがコンコンと響いていて心地いい。
わりと降っているような気がするのに意外と雨は当たらない。森の中では木々が傘の代わりになってくれていた。木々が雨に濡れぬよう、わたしたちを守ってくれているのだと思った。でも、実は全然違っていて、木々も生きるために必死に水分を吸収していたのだと思う。次いつ補給できるかわからない貴重な水。「人間の小娘なんかに分けてやるか!」と言わんばかり必死に。木々だって生きているのだから当たり前だ。
だから、あの日も山は潤っていた。必死に潤っていたのだ。
そんな中、わたしはひっそりとその空間にいた。立ち止まって、ただただ、木々を眺めていた。すると、わたしも、少しだけ潤っていく気がした。その瞬間、水の中にいるような居心地になった。とても居心地が良い。解き放たれていく感じがした。
何故そう感じたのか、考えてみた。きっと、水が"生きるもの"の根幹でその根幹部分にあの日、あの山の中で、触れたからじゃないかと思う。
産まれる前の十月十日の旅は水の中で過ごす。生まれてからもヒトのカラダの60%は水分でできていて、新生児は、80%も水分でできているらしい。地球だと2/3も水分で覆われている。
そう、だからあの雨の日の山の中で居心地が良く思えたのは、きっとその根幹を思い出させてくれた瞬間だったからなのだと思う。
雨の日はそんなことをふと、思い出す。